少女の一日を潮風に乗せて
(お題:にゃんこ 世界の終わり 日傘)











「明日ね、世界の終わりが来るの」



それは、あどけなさの残る少女の声だった。
高校へと続く長い長いアスファルトの通学路、何一つ変わるはずのないありふれた日常への通路。
それが今日は、曇った眼鏡を通しているかのように歪んで見えた。

「そうか、それは大変だな。それじゃあ後1日をどう過ごすんだ?」

小柄な身体に似合わず、『にゃんこ』という文字とかわいい猫の絵が刺しゅうされた大きな日傘をさしている。
あいにくの曇り空で太陽は殆ど顔を見せていないが、少女はがっちりと日傘を掴んでたたもうとしない。

「うん、だからね・・・どこか遠いところへ遊びに行きたいの」

春爛漫の陽気にも関わらず、真っ黒なジャンパーを身に纏っている。
サイズが全く合ってないようで、袖は大分余り、裾が膝元まで覆っていた。
その辺にあったものをてきとーに着てきたという印象を受ける。

「遠いところかー。でも一人じゃ危ないから、誰かと一緒にいくんだぞ?」

背丈は俺の半分ほどしかない。背中の殆どを覆い尽くす程の黒髪は、その容姿には似つかわしくなくてなんだか可笑しかった。

「うん、だからね・・・」

何か嫌な予感がした。普段予感とかそういう類のものは殆ど感じないのだが、
この時だけは明らかな違和感があった。



「お兄ちゃんに、遠いところに連れていって欲しいの」






なんの変哲もない朝の、ほんの些細な出来事だった。


「あー・・・お兄ちゃんもどこかに連れていってやりたいんだけどね、これから学校にいかなくちゃいけないんだよ」

その断り方がよくなかったのか、少女は小さな瞳に涙をいっぱい浮かべてこう反論した。

「明日、世界が終わっちゃうから、最後に遠いところでいっぱいいっぱい遊びたいの・・・。だから・・・」

今にも声を上げて泣き出しそうだった。こんな道端でそんなことをされた日には周りからどんな目で見られるかわかったもんじゃない。
幸い俺は学校をサボることに関してはそこらの生徒とは比べものにならない、言わばベテランの域に達している。
が、遠いところと言われても学生の財布の中身などたかが知れている。
それ以前に、いたいけな少女を連れ回すこと自体に何か問題がある気がするが・・・。
遠出するフリして警察に届け出た方がいいか?

「お父さんかお母さんには出かけて来るって言ってあるのか?」

日傘が生み出す日陰の中で口を閉ざす少女。何となくそんな予感はしたが、やはり黙って出てきたのか。
こりゃ勝手に連れ回したことがバレたりしたら騒ぎになるどころの話ではないな。やはり、きっぱりと断ろう。


「・・・」


決心を固め放とうと思った弁解の言葉は、真っ直ぐ向けられた少女の瞳と目線が重なったことにより封殺された。
純粋無垢な眼差し、嘘をつく罪悪感に耐えることはできなかったのだ。
揺れ動く決意。棒切れで突かれただけで簡単に崩れてしまいそうな心を、少女は見透かしているのだろうか。


「お願い・・・」


頬を伝う雫にもはや弁解の余地などなかった。なおも拒みつづける算段を立てる程俺も鬼じゃないさ。

「・・・どこへ行きたいんだ?」

瞬間、少女の傘下は燦々と輝く太陽の光に満たされた。

「いいの!?それじゃあえっとね、うーんとね・・・」
「こうなりゃ自棄さ、どこだって連れていってやるよ」

近場の遊園地くらいなら二人分の往復電車賃とチケット代くらい、財布を搾れば出てくるはず。
今月の昼食が悲惨なことになるとか、そもそも両親の承諾なしに少女を連れ回していいものなのか、
そういう細かいことはもう考えないことにする。考えても悲しくなるだけだし。
とまぁ、そんな程度にしか考えていなかった訳だが、この一言をどれだけ後悔することになるであろうか、
当然ながら発言当初の俺には知る由もない。少女は日傘をくるくると回しながらご機嫌な顔で暢気にもこう言い放つ。

「ほんとぉ!?じゃあじゃあ、海に行きたい!」
「ぶっ」

と思わず吹き出してしまうのにもちゃんとした理由がある。何を隠そうこの地域は思いっきり内陸部で、
海岸に出るだけでも電車に揺られて2時間以上、まともな浜辺にいたっては3時間半は余裕でかかるのだ。
その上この近辺の鉄道は軒並み運賃が高く、まぁ二人で往復5〜6千円は下らないだろうな。はは、涙と笑いが同時に込み上げてくらぁ。

「あ、う、海かぁ。でもこの時期の海は海水浴も出来ないしあんまり楽しいことはないかも、うん、きっとない」
「うーみ!うーみ!ねぇねぇお兄ちゃん早く行こうよ!えへへっ」

あー、聞いちゃいねぇ。これはもうダメかもわからんね。・・・主に財布の中身とか。

「あぁ、行こうか・・・」

















「電車っ、電車っ、ねぇ見て見て!おっきな建物がいっぱい!」

私営鉄道電車内。
窓の外を指さしてきゃっきゃきゃっきゃとはしゃぐ少女。
通勤通学時間真っ只中、当然多数の乗客が乗っている訳だが、そんなことも少女にはお構いなしの様子。

「こ、こら、あんまりはしゃぐなって・・・」
「お兄ちゃんも見てよー!・・・わぁ!あっちの建物変な形ー」


・・・くすくすと周りの乗客から漏れる笑いに関してはまぁきっと俺に向けられているものではないからいいとして。
世界の終わりがくるから海に行きたいというなんとも無理がある頼みだが、かく言う俺も実は海を見たことがない。
正確には小学校に上がる前、両親に連れられ一度だけ行ったことがあるらしいのだが、当時の幼心には印象に残らなかったらしく全く覚えがないのだ。
勿論写真や映像じゃ何度も見てるし、今更高い金と時間を浪費してまで行ってみたいとは思わない。

それがまさかこんな形で行く羽目になるとは、普段通り登校していた30分前の俺もびっくりであろう。


「お兄ちゃんは、海に行ったことあるの?」
「俺か?まぁ、一度だけな。・・・それより電車の中くらい日傘をたたんだらどうだ」
「早く見てみたいなぁ・・・。海って、飲み干せないくらいいぃーっぱいお水があるんだよね?」
「少しは人の話を・・・はぁ、そうだな。とてもじゃないが人間に飲み切れたもんじゃないな」
「そんなに!?じゃあじゃあ、もしかしてお風呂よりもいっぱいあるの!?」

・・・実際見たら腰抜かすんじゃなかろうか。

「とりあえずほら、他の人の邪魔になるから日傘は閉じよう、な?」

通学路でばったり出会った時から絶えず開きつづけている日傘はもはや少女のトレードマークだが、流石に電車の中では自重してもらいたいものである。
が、何度閉じるように言ってもがっちりと柄の部分を握って離すことはない。
幸い乗客に文句を言われることはなかったので執拗に言うのはやめておいたが、そんなに日傘がお気に入りなのだろうか。


「ところで、海に着いたら何するつもりなんだ?」

素朴な疑問。
まさか春先のこの時期に海水浴とは言うまい。仮に言ったとしても水着なりなんなりまで買う持ち合わせはない。
一般的な学生の懐をなめてもらっては困る。

「何でもいいよ!」
「何でもって・・・」

それはそれで逆に困る。
海に行って海水浴以外何をしろというのだろうか。・・・釣りか?まぁ餌も竿もないな。
ならなんだ、砂浜でお城でも作るか?経済的だし誰もが一度は憧れる遊びだよな、うん、これがいい。

「海が見れれば、それでいいの・・・」

湿り気を帯びたその声は、すれ違う電車の騒音が飲み込んだ。














順調に・・・とはまったくもって言い難いが、なんとか電車の乗り継ぎを終え目的の駅に到着。
なるべく財布の中身は見ないようにしている、というか見えない、見える程モノが入っていない。

「ここが海ー?なぁんにもないところだけど・・・」
「ここから少し歩くみたいだな。その前に腹ごしらえしていくか、朝から何も食べてないだろう?」
「うん!食べる食べるー!」

三時間以上電車に揺られたにもかかわらず少女は鞄を引っ張って催促。
まぁ何も食べないでごねられたくはないし、多少の散財は既に覚悟の上である。・・・多少ならだぞ?多少なら。

「何か食べたいものはあるなら遠慮なく言ってくれ。とは言っても、あんまり高価すぎるものは」
「お寿司食べたい!」

・・・ははは、俺としたことが迂闊な発言だったぜ。こんな子供に遠慮の二文字が理解できてるわけないもんなぁ。
大体、理解できてるなら初めから海いきたいだなんて言わないか。学習しようぜ俺。

「お、おう。・・・!ちょうどいいところに回転寿司屋があるじゃないか、そいじゃあそこにするか!」
「わーい!お寿司お寿司ー!」

百円均一の文字が見えて駆け込んだのは言うまでもない。


午後2時。お昼時を過ぎた中途半端なこの時間帯のせいか殆ど客は入っておらず、ほぼ貸切状態の店内。
ひたすら回り続けるネタをもの欲しそうに指をくわえて眺める少女。なんとも平和な風景である。

「むむぅ?なんで笑ってるの?」
「ああ、すまんすまん。指くわえて見てないで、好きな皿を取って食べていいんだよ」
「え?そうなの?なぁんだ、それじゃあいっただきまーす!」

と、どうやら俺自らブレーキを外してしまったらしく、3皿同時にテーブルに取っては食べ始める。
むしゃむしゃと満面の笑みで咀嚼するその姿はなんとも愛らしいが、一つにつき百円と考えるとなんとも高い笑顔である。
某ファーストフード店のスマイルは無料なんだけどなぁ・・・。

「・・・すごいよこれ、すっごくおいしい!ほら、お兄ちゃんも食べよう!」

・・・まぁでも、たまにはこういうのも悪くないかもしれないな。


「ところでさ」

二人合わせて10皿を超えたところで口をはさむ。食欲阻止の為ではない、いや本当に。

「海が見たいなら両親に連れて行ってもらえばいいんじゃないのか?なんでまたわざわざ俺に声かけたんだ?」

当初からの疑問であった。ジェットコースター顔負けの展開で突っ込む隙もなかったから今まで黙っていたものの、
漸く落ち着いて話ができる機会を得たのだ。思い切って聞いてみることにする。

「・・・」

あれだけ食欲のあった少女の手がぴたりと止まった。多少覚悟はしていたが、やはりまずいことを聞いてしまったのだろうか?
単純に考えれば、通りすがりの見知らぬ他人である俺に連れて行ってもらうくらいなら両親と出かけた方が余程楽しい年頃である。
両親の都合で出かける時間が取れないか、もしくは・・・。

「明日ね、世界が終わっちゃうの」

出た。出会って間もなくかけられた言葉だ。
子供らしい嘘といえばそれまでだが、その言葉を口にする少女の目はなぜか寂しげに沈んでいるように見えた。
その原因は今回もわからぬまま、少女は続ける。

「だからね、お父さんもお母さんもお外に出たらダメっていうの。でも・・・」
「今日を逃したら海が見れなくなる・・・か」

こくと小さく首肯する。あくまでこの言い分を突き通すつもりらしい。
だが、そこまでして海を見たい理由はどこにあるというのだろうか。

「お兄ちゃんも海、見たことないんだよね?」

ああ、と相槌を打つと、少女は少し頬を綻ばせて笑顔を作った。

「そっかぁ・・・。えへへ、よかったぁ」
「ん?何がよかったんだ?」
「だってだって、初めて見る海は楽しいってお母さん言ってたもん!だからお兄ちゃんも、きっと海を見て楽しい気持ちになれるよ!」

海を見て楽しい気持ちに、か。自分のことばっかり考えてる奴かと思ったが、幼いながら俺のことも考えてたんだな。
そう思うと、どこか少女の姿が愛おしくも思えてくる。今日一日くらい、こいつを笑顔にさせてやりたいと。
そんな、気持ちにかかった靄は少女の一言に風のように取り払われた。

「ごちそうさま!あのね、すっごくすっごくおいしかった!また帰りもこようね!」
「え、か、帰りも?あ、あはは・・・おあいそー・・・」

お皿を数える店員の指先が妙に恨めしく見えた・・・。























強烈な太陽の光が降り注ぐ午後3時。
駅前からものの数分歩いただけで、建物が殆どない閑散とした土地に出た。
地元もかなりの過疎地域ではあるが、ここは明らかにそれ以上だ。
店やビルはおろか、住宅すら殆ど見かけることができない。
無駄にだだっ広いアスファルトのせいなのかか、春先のこの時期にも関わらず異様なまでの熱気が漂っている。
俺はまだしも、少女の足並みは明らかにそれまでと比べて鈍いものになっていた。

「大丈夫か?そんなでっかい日傘持ちながら歩いてたら疲れるだろう?」

気遣って言葉をかけると、少女は明らかな作り笑顔をこちらに向けてくる。

「少し休憩していくか?」
「ううん、大丈夫・・・。はやく、海、見たいから・・・」

その表情が生々しくて、少女を直視できないでいた。

「ふ、ふわぁ!?」

おもむろに少女を背負いあげた。
小さいころ、俺がされたように。

・・・なんだろう、この感覚は。
前にも一度、こんな感覚があったような気がする。
いや、正確には何かが決定的に違っていたような・・・。

「・・・あのね」
「ん、なんだ?」

背負っているのだから少女の顔は見えない。
だが、そのときの少女が満面の笑みでそれを言い放ったということは、火を見るより明らかなことだった。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

・・・だから、なんだか照れくさくて

「・・・ああ」

そんな短い相槌を打つのが精いっぱいだった。



それから、どれだけ歩いただろうか。
いや、もしかしたらそれほど歩いていないのかもしれない。
それくらい、長いようで短い時間。

少女を背負ったときに感じた感覚。
それは歩を進めるごとにくっきりとした輪郭を帯びていくように感じた。
忘れていた何かが不意に舞い戻ってくる感覚。
それはまるで、古いアルバムの写真を一枚一枚手に取っていくような・・・。





「・・・海だ」


開ける世界。鼻を吹き抜ける磯の香り。
さざめく波の音。青く染まった視界。

五感を刺激する要素が、今まで忘れていたものを呼び戻してきた。
幼いながら好奇心でやってきたこの海岸。
あの時の父親は、足を痛めた俺のことを気遣って今の俺のように背負ってくれたっけ。

ちょうどその日も、今日のような春の陽気だった。
初めて海を見たときは、確か言葉が出なかった。
すごいとか、綺麗とか、そんな中途半端な言葉では表現できないほど、その光景は俺の心を打った。
しばらく呆然とこのアスファルトの上に立ちつくし、母親に手をひかれて砂浜に足を踏み入れる。
サンダルの中に入ってくる温かな砂が気持ちよくて、思わず脱ぎ捨てて。
そのまま海に飛び込んで、そして・・・そして?



「・・・」

少女もまた、あの時の俺のように呆然と立ち尽くしていた。
きらきらと太陽を跳ね返す広大な海原はまるで、宝石をちりばめた巨大なキャンバスのようだった。
自ら俺の背中から降り、それをじっと見つめて視線を動かさない少女。
潮風に長い黒髪がふわりとまきあげられ、日傘から見え隠れする。

「・・・これが、海?」

不意に少女が語りかけてくる。

「ああ、そうだ。よく目に焼き付けておけよ・・・」

自分がそうであったように、少女もまたこの光景を忘れてしまう日がくるのだろうか?
俺は、少しでも長い間少女がこの日のことを覚えていてくれるようにそれ以上は口を開かなかった。
少女の記憶に深く、深く刻み込まれるように・・・。未来まで、死ぬまで覚えていられるように


「・・・お砂の中、入ってもいい?」
「ああ、いいとも。好きなだけ楽しんで来い」

言うと少女はゆっくりと、海岸の階段を下り始めた。
一歩一歩下って、そうして漸く辿り着いた砂浜を少女はどんな気持ちで踏みしめているのだろうか。

すっと、少女の小さな足を液体のように包み込む黄金色の砂。
足を取られないように手を握ってやると、少女は一瞬歩みを止めてぎゅうと握り返してきた。
それを決して離さないように、波打ち際まで一直線に進む。
さざめきは大きくなり、磯の香りも明らかに強くなっていく。
そうして、やってきた陸と海の境界線を一歩またぎ、また一歩・・・



「だめだ!!!」

















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氷水のような海水を全身で浴び、体が麻痺した。
おかしい。自分の体がまるで他人のもののように、自由に動かすことができない。
何が起きてるかもわからないまま、荒い波が生き物のように深いところへと引きずり込んでゆく。
深い深い闇の中。視界は薄れ、ぼうとただよう白い光だけが眼前に浮かぶ。
やがて自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われたその時、手のひらを何か温かいものがぎゅっと力強く握りしめた。
しかし、それでもなお体は、そして意識は、暗い水底へ沈んでいく。
ついには、白い光さえも見えなくなり。
そして・・・。








はたと目を開けると、白い天井が視界に溢れていた。
次に横を向くと、母が座っていた。
その顔は酷く疲弊しきっていて、目は絵具をこぼしたように真っ赤に腫れていた。

しかし、俺と目線が合うとすぐに駆け寄ってぎゅうと体を抱きしめてきた。

「よかった・・・本当に・・・っ!」

俺は訳がわからず、でも温かい母の懐で静かに目を閉じていた。
安心できる、母の懐。でも、何かがおかしかった。
どうやら俺は、その時この場にいるべき存在がいないことに気づいていなかったようだ。

「ああっ、本当によかった・・・。あなた"だけでも"無事でいてくれて・・・!」


涙を流す母の中で、俺は恐ろしい寒気に襲われた。
温かいはずの母の懐が、だんだんと冷たくなっていくようだった。
なんだ、こわい・・・。わなわなと体が震える。どういうことだ、なんで止まらない・・・。


水底の記憶と、母の言葉が、まるでパズルのピースのように一つの絵になっていく。

母の言葉が頭で復唱されるその度に、安心なはずの母の懐が不安にかわり。
やがて・・・恐怖にかわり。


「あ、あ、・・・うあ、あ・・・・」


そして、絶望のパズルに最後のピースがはまった。



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ぎゅうと、細身な少女の体を抱きしめた。
決して離さないように、自分でも恐ろしいくらい力が入っていた。

体が震える。氷水のような海水が足元を撫で、戦慄する。
先ほどまで暑いくらいだったにもかかわらず、恐ろしいほどの悪寒に襲われた。
視線がぶれる。頭が回り、世界がぐるぐる渦をまいていく。
このまま少女を離してしまったら、自分はおかしくなってしまいそうだ。
絶対に、離さないように。もう、誰も失いたくはない・・・!



「お、お兄ちゃん・・・」



くぐもったか細い少女の声がふと自分を我に返らせる。
慌てて腕の力を緩め、少女を開放する。

「あ、す、すまない・・・」

足の震えが止まらない。緊張したときのそれとは明らかに異なった、異常ともとれる震え。
ああ、留めていないと。自分の手中に留めていないと少女は深い、深い水底へいってしまう!


「・・・海って、怖いところなの?」


意識が煩雑している中、不思議と少女の声だけははっきりと聞こえた。

「お母さんが言ってたの。海はとっても楽しいところで、とっても綺麗なところだって」

かすかだが、少女の声はうわずっていた。
それでも口を閉ざそうとはしない。視線をまっすぐこちらに向けて、

「本当にね、すっごく楽しいんだよ!だからお兄ちゃんにもね、いっぱいいっぱい笑顔になってほしいの!」

日傘の下で、精いっぱいの笑顔を作ってみせてきた。瞳からこぼれる涙が、心臓を握りしめられるように心を苦しめた。
せっかく一生記憶に残る日にしてやろうと思ったのに、俺はなんなんだ。
思い出を作ってやるどころか、笑顔になってほしいとまで言われて。

・・・でも、そうだよな。
俺がここまできたのも、少女の笑顔が見たい一心だった。
それと同じように、少女だって俺に笑顔になってほしかったんだよな。
そんなこと、とうに気付いていたはずなのに。
恐ろしい過去が、それを邪魔していただけなんだ。



もう、迷いはしない。
震えもしない。
恐れもしない。
今日という日を、最高の思い出で飾るために。
二人で。




「・・・思いっきり、遊ぼうか!」
「・・・うん、お兄ちゃんっ!」








































数時間が、一瞬の間に過ぎていった。
楽しかった時間は、必ずいつか終わりを告げる。
今日だってご多分に漏れることはない、終わりは静かな夕暮れとともにやってきた。

帰りの電車、少女は行きとは別の生き物のように静かに寝ていた。
遊び疲れたのだろう。下車駅になっても目を覚ますことはなく、仕方なく背負ってやったりもした。
しかし、地元の駅に着くと不思議とすぐに目を覚まし、手を握ってきた。


二人で歩く見慣れた道。お互い特に会話をするでもなく、ひたすら歩く。
不意に空を見上げると星も月もでていない、恐ろしいほど真っ暗な空だった。


「・・・ここでいいか?」


そこは俺が少女と初めてであった場所。そういえば俺は少女がどこに住んでいるかも知らないんだったけ。

「うん・・・」

会おうと思えばまたいつでも会える。それなのに、何故かこれが永遠の別れなような気がした。・・・いったい何故だろうか。

・・・ふと、少女のある言葉が脳裏をよぎった時、少女の小さな体がふらりと左右に揺れる。そして。


「おい、どうしたんだ?ちゃんと立ってないとあぶな・・・!?」

そのまま少女は糸の切れた操り人形のようにバランスを失い、倒れてきた。
慌てて両手でその細身を受け止めるが、殆ど力が入っていないようで体重がずっしりとのしかかる。
その表情は穏やかで、まるで眠っているようだった。
だが、いくら強く体を揺すっても起きようとはしない。


・・・腕が、震えた。








『明日ね、世界の終わりが来るの』





どさと、日傘の倒れる音だけが響いた。

































急いで病院にかけこんだ時にはすでに少女の息は細く、状態の深刻さは素人目にもわかった。
すぐに少女の両親がかけつけてくる。少女の名前を叫ぶ両親の姿を、俺はただ黙って見ていることしかできなかった。


頭が、真っ白だった。
勝手に連れ出して両親に何を言われるかとか、そういった罪悪感もさることながら、
単純に少女が倒れてしまったことで頭がおかしくなりそうだった。
もう二度と会えなくなるかもしれないと考えると、絶望と恐怖に襲われた。







「・・・君が、この子を連れ出した少年か」

少女の寝る病室に呼び出された俺に最初に向けられたのは、おそらく父であろう男性のそんな言葉だった。
奥には、倒れたときと変わらない穏やかな表情で目を閉じでいる少女の姿があった。
しかし、その顔には呼吸器のようなものがつけられ、状態が芳しくないことを嫌というほど示していた。

「あ、あの・・・すいません。俺・・・」

何と謝罪すべきか、言葉に詰まった。
勝手に連れ出したうえあんな状態にまでさせて、自分を責めても責め足りない。
手元に刃物の一つでもあれば、迷いなく自らの胸元に突き刺していることであろう。


「・・・ありがとう」


・・・は?
思わず口に出しそうになってぐっとこらえた。
ありがとう?どういうことだ、それが少女を連れまわした挙句倒れさせた人間に向かって言う言葉なのか?
困惑する俺を察したのか、今度は奥で看病をしていた母親と思しき女性がこちらに歩み寄りつつ口を開く。

「実はこの子、ポルフィリン症という病気なんです」
「ぽるふ・・・ええっと、それは一体?」
「簡単に言うと、日光に当たれない病気です。なので、小さい頃からずっとこの病院で入院していまして・・・」

・・・そうか、だから電車の中でも絶えず日傘をたたまなかったのか。

「どうやら君は、あの子を海に連れて行ってくれたようだな」
「ええ・・・でも、どうしてそれを?」

父親は立ち上がりベッドへと歩み寄ると、少女の手をそっと握りながら

「君が控え室で待っている間、1度だけ目を覚ましたんだ。そうして私たちに、君のことを話してくれた」
「・・・」
「この子はね、ずっと海に行きたがっていたんだ。でも見ての通り病弱でね、遠くまでいくことは医師が許可してくれなかった」

「初めはなんて酷いことをする少年なんでしょうと、そう思ったわ。でもこの子の話を聞いてみると、それはとんでもない間違いでした」
「ああ。この子があんなに笑って話をしたのは久しぶりだったよな。よっぽど楽しかったんだろう」



・・・。

涙が、溢れてきた。
俺は、少女の記憶に今日と言う日を残せたのだろうか。



「だから・・・もしよければ、この子に最期まで付き添ってやってください」



「そうしてくれればきっと、この子も喜んでくれるから・・・」













・・・
・・






少女にはわかっていたのだろうか、自分の体があとどれだけ持つのか。


わかっていたからこそ、俺のような見知らぬ人間にもすがってでも海を見たかったのだろうか。




『明日ね、"私の"世界の終わりが来るの』




その言葉の真意を理解できなかった俺を、今となっては後悔してもしきれない。
もしそのことが分かっていれば、もっともっと遊びつくしてやったのに。




「・・・楽し、かったよ?」

力のない、風にさえかき消されそうな声だった。

「!! 気がついたのか!?大丈夫だ、ずっと俺が傍にいてやるから、な!?」

「・・・うん」
「無理に喋らなくてもいい、このままだと本当に」
「いいの。・・・だって、今お話できなかったら、お兄ちゃんと話せなくなっちゃうから」

くそ、何を言ってるんだ。
また元気になって、たくさん話せばいい。
たくさん遊べばいい。
また、海にいけばいい。


・・・でも何故か、それを言葉にすることはできなかった。


「今日ね、すっごく楽しかったの。お兄ちゃんといっぱいいっぱい遊んで、お寿司も食べてね、初めて海も見たの」

「・・・ああ、そうだったな」

「それでね、いっぱいいっぱい笑ったの。・・・ほんとだよ?きっと、今までで一番笑った日だったよ?」

「・・・ああ、そうだったな」


「・・・だからね、お兄ちゃん。最後に、もう一度だけ言わせてほしいの」



「・・・」



もはや、言葉を紡ぐことすらできなかった。











「ありがとう、お兄ちゃ・・・」




















午前0時。少女は幸せそうな表情で目を閉じた。




























-あとがき-

どうも今回の鬱担当です(笑)
前回のアスパラとは180度違う方向性。
回転ずしとか電車のくだりいらなかったかね!あは!
前半と後半のテンションの差はなんなのだ。私の気分の差なのだ。

とりあえず、誰か文才分けて!





※以上の文章は談話室第二回競作企画の参加作品です。




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